神長真一郎の手記

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【11】1997年05月24日

 五月二四日、事務所の窓から聞こえてくる小学生グループの笑い声に気分を落ち込ませながら、私は一冊の手帳と対峙していた。ボロボロに剥げてしまった黒革手帳。その汚さから陰険な助手兼妻・神長晴海の目に止まり、今日を以て、その活躍に終止符を打とうとしている。思えば当探偵事務所の立ち上げ初期からの出来事を刻んできた、長い付き合いの手帳だった。当然ながら思い入れは強い。だからこそ本音を言えば、私は手帳を捨てる事を拒みたかった。だが、助手があまりにも強く新しい手帳との書き換えを強要するものなので、とうとう私は拒否する事も出来ず、事務所ソファに手帳ともども縛り付けられてしまった。嫁は閻魔より怖い。
 客の来ない探偵屋として名の馳せる神長探偵事務所に、平日昼間のうち人口が二人に達するのは異例の事態だ。うちのように寂れた探偵事務所は特に、自ら仕事をもらってこなければ生計を立てられない。そういった事情から、私は日々、警察署や地方団体に依頼がないかどうか聞いて廻っていた。たいていは同業者に仕事を先取りされていたり、依頼を拒否されることが大抵である。だが、その作業を怠ることは事業の廃止、つまり路頭にさまよう事を意味しているのだ。日々を過ごすためには重要な仕事と言える。
 その旨を晴海に主張しつつ外に出たいと懇願しても、彼女は「さっさと手帳書き換えろ」の一点張りだった。この鬼畜、手帳の書き換えを終わらせない限り私を外に出す気はないらしい。それならば代わりに仕事を貰ってきてくれ、と私は言うも、妻から返ってくるものは舌打ちばかり。つくづく、自分勝手の極みである。
 などと、愚痴を言っていても始まらない。
 さっさと終わらせてしまおう、と黒革手帳と新しい手帳をソファに置きつつ、好物の胡瓜スティックをかじること一時間。手は全く動かない。古くなった手帳から要点だけを切り抜き、新しい手帳に書き換える、という作業は想像以上に難しい。晴海が簡単に告げた「要点」という言葉は私にとって、理解し難いものだったのだ。そもそも要点とはなんだ。その全ては実際に起こった事実であり、代え難い経験であるのだ。要約など出来るものか。私の思考は「要点」の言語学的意味付けから発展し、懐疑論の終点にまで及ぶ。結果、必然的に手は動く事もなく、野菜スティックに味噌を付ける回数だけが増えていっている、というわけだ。
 何本目かの野菜スティックを手に取ったとき、珍しく事務所の電話が鳴った。これは良い気分転換になる、と電話に向っていった私だが、晴海から跳び蹴りを喰らったため、電話を取りに行ったつもりが床に平伏す事となった。
「はぁい。神長探偵事務所ですぅ」
 助手の黄色い声に対し、私は指を口に突っ込み嘔吐のアクションをしてみせた。助手は私に向けて中指を立てながらも、天使のような声で応対している。
「はぁい。ちょっと待って下さいねぇ。……おいいつまで寝てんだ馬鹿。仕事だよ」
 晴海が私に電話を差し出す。
「晴海君。悪態を吐くのなら、せめて電話を保留中にしたまえ。みっともない」
 私の言葉に、晴海は慌てて電話機を確認する。私は彼女に殴られる前に、即座に電話機の保留ボタンを押し、声をあげた。
「お待たせしました」
「……神長真一郎さん?」
 女の声がする。人生経験豊富な淑女に多く見られる、余裕のある声だった。だだ、声質に関しては少女のように透き通っており、煙草や生活に汚された不清潔さを覚える事もない。だから私は、電話の先の彼女に中性的な第一印象を受けた。
「はあ、そうですが」
 探偵さんですか等々の言い回しは良く聞くが、いきなり名指しされる事などあまりない。希有な出来事に、私は少し惚けた声で言葉を返してしまう。
「依頼したいのだけど、宜しいかしら? 私、探偵さんに電話するのなんかはじめてで」
「そういう方は多いですよ。まあ、基本的になんでもお引き受けしますので安心して下さい。浮気調査でも、飼い猫の捜索でも、人生相談でもスーパーのレジ打ちでも結構。報酬を頂けるならなんでもします」
 そんな冗談じみた本音を交えつつ、私は近くにあったテーブル椅子に腰を据え、適当なメモ紙を用意する。
「それでご用件は? ……えーっと」
「失礼、福田恵美よ」
「福田さんですね。何があったんです? ご主人が浮気でも?」
「浮気だなんて。私、結婚もしてないもの」
「浮気調査ではない。すると住人間のトラブルですか? 騒音とか」
「いいえ」
「ははあ、公共施設関係のトラブル?」
「いいえ」
「……まさかスーパーのレジ打ち、なんて言いませんよね?」
 福田と名乗る女性は、電話口から苦笑を吐き出した後、違うわと言った。
「人を探して欲しいのよ」
 女性は以前と変わらぬ強気な声で言う。
「人ですか」
「ええ、人よ」
「失礼ですが……その、探して欲しい方とはどういった関係で?」
 念を押すように尋ねた。人捜しという案件は、時と場合によっては厄介なトラブルを招くものだ。間接的とはいえ、犯罪の片棒を担いでしまう事も考えられる。そうなる前に、依頼人と探し人の関係を把握しておきたかった。
「小学校時代の友達よ。……と言っても、私の方が引っ越しちゃったから、実質は三年間の付き合いだけれど」
「へえ。その方とは引っ越してからも連絡を?」
「いいえ」
「なるほど……」
 少しひっかかる。小学校時代の友達を探したい……それは良い。だが、対面もしていないこの福田という女性の年齢を明察する事は難しいが、声質から妙齢である事は確かだ。つまり彼女は、小学校時代からずっと連絡も取っていなかった人間とコンタクトを求めている、という事か。
「人づてに、彼女が東京にいるという話は聞いてるわ。あとは……」
「まあまあ福田さん。とりあえず、詳しい事は会ってからお話しませんか?」
 意気込む福田の声を抑えて、私は言った。
「じゃあ、お引き受けしてもらえるんですの?」
「ええ。少しはお役に立てそうですし。明日、空いてます?」
「ええ。一七時以降であれば大丈夫」
「それじゃ、明日の一七時に」
 電話を切った後、私の声を黙って聞いていた晴海が声をあげた。
「人捜しかい?」
「ああ。小学校時代の友達らしい」
「小学校の? ……同窓会でもやるのかねぇ」
「さてね。明日の17時に会う事になったから、準備だけは頼むよ」
「わーってるよ。うっさいね」
 それで会話は終わり、われわれは各自の持ち場に戻ることとなった。私はテーブルの手帳の前、彼女はTVの前だ。私の方は久しぶりの電話依頼に興奮したせいか、それから一時間もせずに手帳の書き換えを済ませる事が出来た。箇条書きだらけの新しい日記を見ると、なんだか複雑な気分になる。
 日も傾きかけた頃、相変わらず事務所に鳴り響くお笑い芸人と晴海の笑い声に嫌気がさしたので、私は近所の書店へと時間を潰しにいった。


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【12】1997年05月25日

 依頼人との面会が迫る夕方、私は事務所からそう遠くない場所にある駅前商店街へとやって来ていた。起床してほどなく「来客用の茶菓子と酒を買って来い」と助手から声がかかったのが理由である。でなければ、誰が寝癖も直さずに外へなど出るものか。
 助手は熱心な愛酒家である。当探偵事務所には至るところにアルコールボトルが置かれているのだが、その全ては助手のものだ。まれに遊びに来る知人や依頼人などから所有者として間違えられる私の方はその実、下戸とまでもなく、平々凡々な飲み口なのだった。あるいはそれが災いしたのかもしれないが、彼女はよく私に酒を誘った。一人で飲むのは淋しいから、などと彼女は言葉を並べるが、本当は事務所にあるアルコールの所有者を対外的に紛らわしたいのである。つまり、妻は誰に対してもこう言いたいのだ。
「夫は愛酒家でして。ええ、家にあるお酒は全て、主人のものなんですのよ。うふふ、ええ、私もたしなむ程度に」
 かくして毎夜の酌に付き合わされる私なのだが、その中でも特に昨夜の呑みぶりは酷かった。買い置きとして飾られた三本の酒瓶の中身が、一夜を待たずして、私と妻の胃袋に収められてしまったほどだ。だからこそ、私は今、激しい頭痛と格闘している。頭が割れるように痛いので、本音を言えば家で休んでいたかったのだが、本当に割れてしまう恐れがあったので、黙って家を出てきた。二日酔いの晴海ほど怖いものはないのだ。
 ひと通りの買い物を終えて商店街中央広場に腰を落ち着けていると、どこかの店からストレイ・キャッツの「Rock this town」が聞こえてきた。大好きなバンドの、中でも思い入れのある曲だ。まだ独身だった頃、よくこの曲を愛車のBGMにして街を徘徊したものだった。あの頃の自分は、何故か大きな人間になると信じて止まなかった。理由も根拠も、ましてや物事の道筋なんてものもろくに考えず、どこまでも単純で、無計画な夢ばかりを追いかけ、やることといえば馬鹿な行いばかりだった気がする。
 あの頃の私は、未来というものを大きく捉え違えていた。それは、未来が必ずしも輝かしいものであるという考え方だ。これは大きな間違いで、結局、未来など現実が積み重なった結果に過ぎず、なにも特別なことなんてありはしない。すべからく、未来とは原因と理由の結晶体であるものなのだ。一九九七年のブライアン・セッツァーの体型や、私の体たらくを見ればそれもよく分かる。
 そんな懐古に浸っていたからか、はたまた二日酔いが晴れなかったからか。ともあれその時、私は印象的な幻想を見た。
 ふと、辺りを見回して見ていたときのことだ。雑然とする商店街を行き来する買い物客の中に「焦げ茶色の袋」をかぶった、若い女が見えたのだ。若い、としたのは服装から得た第一印象だけだったので、本当は結構年を食っていたのかもしれないが、ともかく、その女は一瞬だけ私の眼中に収まり、すぐに他の買い物客と溶け込んでしまった。
 一瞬の出来事で、私がもう一度よくそこを覗いた時には、もうそのような光景など無かった。だから、きっとそれは私の幻想に違いなかった。

 買い物を済ませ自宅に戻ると、台所に立つ晴海の姿があった。彼女の後ろ姿と並んで、湯気の立つコーヒーメイカーが見える。思えば、こうしてメイカーの機能を俯瞰で捉えるのもずいぶん久しぶりだった。
「帰ったよ」
 のれんをくぐって声を出すと、晴海は私をチラリと見た。そして、それのみだった。
「うむ。台所に女とは、やっぱり絵になるものだなぁ」
 沈黙に耐えきれず、私はそんな無駄口を叩いた。我が家にとってすれば、それは『こたつに扇風機』ほど不自然な組み合わせだった。晴海は何事にも無頓着なので、洗濯はもちろん家事全般すらまともにやろうとしない。だが、来客があれば別である。極度の八方美人である彼女は、外見からは夫を立てようとしてくれるのだ。図々しいと思う事もあるが、これはこれで、我々夫婦の関係をバランスの良いものにしていた。
「台所に女あるべきだなんて。偏見じゃねーのか、それ」
 挽き立てのコーヒーの、その香りを確認しながら晴海は言う。
「ん、好みの問題だよ。たとえば児童用縄跳びは緑色であるべきとか、耳かきは綿が付いてあるべきとか、その程度の話さ」
 言い訳がましく補足する私に、晴海は面倒臭いと言わんばかりに話を変える。
「買ってきたか?」
「ん、ああ。呑みやすいトライアングルを三本ね。あえてアルコールの低い20度にしたんだけど、これは僕からのささやかな気持ちだから」
 そんな冗談を飛ばしながら、私は買い物袋を彼女に渡した。彼女はトライアングル三本を取り出し、数秒ほど見つめた後、すぐに入り用の茶菓子へと視線を移した。
「抹茶モナカか。悪くないね」
「ありがとう」
 それは、残り物としての評価である事を私は知っている。あえてとぼけて見せるのは、長年の付き合いで培った技術と言うべきだろう。

 所長室でくつろぐこと間もなく、インターフォンが鳴った。私と晴海は、いっ時だけ視線を合わせてから、各々あるべき位置へと戻った。所長用の回転椅子を鳴らすこと数回で、玄関が解錠される音がした。同時に、晴海の黄色い声がする。
「所長。依頼人がお見えになりましたわ」
「ああ、通したまえ」
 ドア越しの三文芝居が終わると、すぐに見知らぬ若い女が顔を出した。
「はじめまして」
 目の前の女性を見て、私は内心で驚いた。声の感じは電話と変わらないが、外見である。年のいった淑女というには些か若々しい格好をしている。ファッション・モデルのような独特なデザインのワンピースにタイトジーンズを重ねた、もう若くもない私には理解に苦しむ服装。胸元は真珠のような長いネックレスで着飾っている。肌質を盗み見ても、皺を感じさせない卵のような肌だった。
「どうも、福田恵美さんですね。まあ、かけて下さい」
 失礼を悟られぬよう注意しながら、私は依頼人をソファへと誘う。
「晴海くん」
 晴海が私の一言で、福田から上着を脱ぐよう促し、受け取ったそれをハンガーにかける。福田は晴海に会釈をした後、静かにソファへ腰掛けた。
「改めて、ご足労感謝しますよ。本当は外で落ち合っても良かったのですがね」
 そう言いながら私は、書斎隅に置かれた名刺入れのフタを開けた。気付かれぬよう埃を払ってから、福田にそれを手渡す。
「気になさらないで。自宅もそう遠くはないし」
 受け取った名刺をまじまじと見つめながら、福田は言った。さほど問題、というより話題に興味すらないといった素振りだった。
「そうですか。では早速ですが、依頼の内容を詳しく聞きましょう」
 福田は短く「ええ」と答えた後、ソファ横に置いたハンドバッグを手に持った。中から取り出されたものは、少し膨らんだクリア・ファイルだった。
「それは?」
「探し人に関する資料よ」
 ほう、と言って彼女からファイルを受け取る。
 ファイルの中には、数枚の紙片があった。一枚は白黒コピーされた卒業アルバムらしいクラス写真。あとは全て、住居録のコピーのようだ。よく見れば紙片の端がホッチキス止めされている。また、紙片の冒頭には「卒業生住所目録」と書かれていた。この住所録の束も、卒業アルバムからコピーしたものなのだろう。
「探し人の名前は伊藤志織さん、ですかね」
「さすが先生。よく分かりましたね」
「……まあねぇ」
 住居録、クラス写真ともに、その名前にはさも特別といった風なピンク・マーカーが施されていた。考えれば誰でも察しがつく。私は改めて顔を確認した。伊藤志織はショートヘアでずっしりとした眉毛をしていて、膝の擦れたオーバーオールを着ていた。まだ小学生というのもあるからだろうが、私は最初、伊藤は男の子なのだろうかと思った。しかし、名前が「志織」というのであれば、捜し人は「彼女」と称すべき性別なのだろう。
「これは、なんです?」
 数ページに及ぶ住所録。各所に点在するボールペン書きの斜線をなぞりながら、私は尋ねる。
「ああ、それは伊藤志織に関して、クラスメイトに聞いて廻ったときに私が付けたマークよ。斜線の引いてないものは、回線が死んでいたりして、連絡が取れなかった生徒ね」
「この量を、すべて自分で?」
 福田は余裕の感じられる笑顔で頷いた。
「驚いたな。たいした行動力というか……あなた、探偵に向いてるかもしれないね」
 機嫌を取るためのおべっかを含めていたが、正直な感想だった。だが、福田は私の意図とは逆に、その表情を暗くする。
「餓鬼に芋殻よ。結局ね。だって、何年もかけて彼女の事を調べているというのに、いまだに見つける事が出来ないんだから」
「何年も?」
「ええ」
「どうして」
 私は耐えきれず声をあげてしまった。年単位で伊藤を捜してきた、という彼女の言葉は、私がにわかに思い描いてきた理由を軽々しく粉砕したのだ。昨日、晴海が言っていた同窓会を行う、などがそうだった。そんな理由で何年も人を探し続けるなんて考えづらい。だとするなら、どうして彼女はこの旧友を捜し続けているのか。
「どうして、そんなに長い間、あなたは伊藤さんを捜してるんです?」
 聞くべきでは無かったかもしれないが、もう遅い。私は残りの言葉を全て吐き出した。
「本当のことは言えないわ」
「それは何故です?」
「言ったら、引き受けてくれるかどうか」
「……逆だな、それは。場合によっては、依頼を破棄させていただきますよ。事によっては、あなただけではない、僕にだって責任が出てくるんだからね」
「安心して。神長さんが憂慮されているような理由ではないわ」
「ん、私が憂慮するような理由とは?」
「つまり私が彼女に危害を加えるってことね。怨恨が理由の殺人とか、そういう目的なのではと疑っている……そうでしょう?」
 なかなかの観察力だ、と私は思う。
「約束しますわ、神長さん。たとえ今回の件が無事に解決したとして、彼女に会うにしても『危害を加える事はない』と。その点で、神長さんにご迷惑をおかけすることも無いわ。一切ね」
 もう一度、福田はキッパリと否定した。
「じゃあ、あなたの言うことが真実として。私が依頼を拒否するかもしれない理由はなんです?」
 先ほどとは違い、純粋な興味で尋ねる。
「理由を言えばね、神長さん。きっとあなた、こう言うわ。馬鹿はおよしなさい、そんな事はあなたにとって、何の利益にもならないってね」
「……妙だな。ならばどうして、あなたは彼女を捜そうと?」
「あなたから見れば無利益だろうけど、私にすれば違うからよ。価値観の問題ね。そういうのって、何にしてもあるでしょう? クラシックにしか興味のない人間にロックの魅力が語れる?」
 確かに、と私は頷いた。頷きながら、釈然とした気持ちをひた隠す。
「それに、じきに分かるわ」
 独り言のように福田は付け足した。
「どういう意味です?」
「いえ、別に深い意味はないけどね。突き詰めていけば、物事は次第にはっきりしていくものでしょう? 彼女のことを調べているうちに、分かってしまうと思うわ。そういう意味よ」
「まぁ、それはそうですね」
「それで、どうかしら? 依頼は引き受けてもらえるの?」
「……ええ」
 私は、種々の気持ちを抑えて彼女に返した。
「お引き受けしますよ。あなたの言葉を信用しましょう」
 言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。なにせ、理由も知らずに人捜しを引き受けた事など、今まで一つもなかったからだ。
「あら、ずいぶん簡単に信用するのね」
 どこか、皮肉がちらつく言い方だった。私は構わず話を続ける。
「調査は明日から始めさせてもらいます。ひとまずは、あなたの連絡先と住まいを伺いたい」
 福田は私が手渡したメモ紙に、電話番号と住所を書き込んだ。彼女の言うとおり、住まいはここから遠くない場所だった。それから、お茶菓子を数個たいらげた後、彼女は事務所を去った。

「よかったのか?」
 福田恵美が去った後、手際よく客人用のティーカップを片付ける私に、晴海が言った。
「なにが?」
「なにがって、馬鹿かお前。依頼のこと以外ないだろう。彼女には悪いけど、こりゃどう考えたってクサい話だよ。なにせ理由が分からない、まして言えないなんてキッパリ言われたんだから。それでもあんたは、その条件を承知で依頼を受けちまった」
「家計簿を付けている立場からするとね、そんな呑気なこと考えてられないのさ」
「馬鹿野郎、真面目に答えやがれ」
 珍しく、晴海は真剣な表情で私を捉えていた。いつもと違う場の雰囲気に、私は少し気後れしてしまう。
「彼女に興味が沸いたんだよ」
「興味?」
 怪訝な表情で、晴海は私を凝視した。構わず続ける。
「晴海くんはどう説明する? 彼女がこの神長探偵事務所に依頼を持って来た理由を」
「理由? そりゃ、彼女はずっと伊藤という女を捜していたんだろ? それで自力で見つからなかったもんだから、うちに調査を依頼したんだろう。当然の理由だ」
「でも、どうしてうちなのかな? 他にも優秀な探偵事務所は山ほどあるだろう」
「そんなの、どうとでも考えられるだろ。『たまたま』彼女の友達がうちを知ってて紹介したとか。ほら、福田恵美の家はここから近いんだろ? だったら、自宅から一番近い探偵事務所を調べたってことも考えられるな」
「『たまたま』? 違うね。理由はさておき、彼女は伊藤という人間を何年も捜し続けている。しかも、自分で住所録を調べて廻るほどの熱の入れようだ。つまり、彼女はこの件に執着しているんだ。どうしても解決したいと思っているんだよ。そんな人間が家から近いからとか、友達の紹介なんて簡単な理由で探偵事務所を選ぶと思うかね? ……私が彼女の立場なら、もっと慎重に検討を重ねた上で、より腕の良い探偵事務所に依頼するけどね。自分で言うのもなんだけどさ、うちは実績も評価もない、売れない探偵事務所だぜ?」
 晴海は福田が座っていたソファに腰を下ろし、じっと私を見据えた。リクエストに応えるべく、私は言葉を続ける。
「つまり彼女がうちを選んだ理由はね、少なくとも『偶然ではない』ということさ。はっきりした理由を以て、この神長探偵事務所に連絡して来なければならない。でなければ辻褄が合わないんだ」
「でも……どうしてうちに?」
「はっきりとは言えないな。ただ、一つ気になっている事があってね……晴海くん。悪いが、地元周辺の地図を持ってきてくれないかな」
 晴海は黙ってソファから立ち上がった。まもなく彼女は隣の部屋から、近隣の地図を持ってくる。
「この周辺地図の中に、大学はいくつあるね?」
 私は地図を指さした。晴海は睨みつけるように、その大学名を口にした。
「ここらへんの大学といったら、盟自大学だけじゃないのか。その他は名前も聞かないし」
「そうだね。だが、一応確認してみようじゃないか。どうだね、晴海くん。この周辺地図に載っている大学は、全部でいくつあるね?」
「この盟自大学だけ、かな」
「ふむ」
「おい。つまり、なにが言いたいんだよ」
「いいかい。彼女は『東京の大学に通う伊藤志織を捜して欲しい』という依頼をした。そして、うちの近隣に大学は一つだけしかない。おまけに、よく見ろよ。盟自大学から駅のある街まで、伸びている道はほぼ一直線だ。大学の向かうは山林地帯だからね。そして、この大学の最寄り駅は、駅前ビルのここからすぐ近くの駅だけ。さて……改めて聞くよ、晴海くん。盟自大学から最寄り駅までの間に、探偵事務所なんて珍しい業種はいくつあるだろうね?」
 妻は改めて、不可解な顔をする。しかし、それはもう私に向けられたものではなかった。
「仮にだ。もし彼女が『伊藤志織の居場所を知っている上で、その居場所から最も近い探偵事務所である、うちに依頼した』とすれば……彼女は、実に興味深い依頼主だとは思わないかね?」
「必要のない依頼……どうして、彼女はそんなことを?」
「じきに分かるさ」
 彼女の言葉を引用する。血が沸き上がる思いだった。ミステリアスな依頼人、不可解な状況……こんな妄想は、探偵になりたての数年間しか思った事はない。
「ともかく、徹底的に調べようじゃないか。晴海くん、確かキミの行っているフィットネス・クラブに、盟自大学に通う知人がいたね?」
「……神原ちゃん?」
「そう、神原ちゃんだ。明日、私に紹介して欲しい。神原ちゃんにアポイントを取っておいてくれたまえ」
「ああ……」
 私の言葉に、晴海は渋い表情で頷いた。

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