小説「おにょらんぺ THE MOVIE」をネット小説大賞に応募しました

昨年登録した「小説家になろう」に、小説を投稿しました。
タイトルは「おにょらんぺ THE MOVIE」です。

おにょらんぺTHE MOVIE(小説家になろう)

公開と同時に、この作品を「小説家になろう」が提携している「ネット小説大賞」の応募作品として登録しました。結果をしっかりと受け止めて、今後の執筆に活かせればと思います。あわよくば、自身の知名度を少しでも上げることが出来ればとも思いますね。全ては自分の腕次第。今の自分に出せるベストは尽くせたと思います。

ショートショート程度の物語を書くことが多い自分にしては、長めの短編になっております。是非ご一読いただけましたら幸いです。

 

以下、ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おにょらんぺTHE MOVIE」は、ひょんな事から大人気娯楽作品「おにょらんぺ」の熱心なファンと勘違いされてしまったシステムエンジニアの青年・正義(まさよし)と、「おにょらんぺ」アンチの少女・芥川(あくたがわ)の心の交流を描いた物語です。二人は「おにょらんぺ」が嫌いという点では意見が一致しているのですが、『作品に対する姿勢』に違いがありました。

物語を書く上で特に気を付けたことは、客観的な「正しさ」を持った人物を描かないことでした。客観的な「正しさ」を持った人物とは、平たく言えば「弱きを助け悪を挫く」ような人物のこと。いわゆる英雄です。これを留意することは現実に存在する「正義(せいぎ)」を描く上で、最も大切なことのように思えました。

本作の焦点である『批評』の点において、客観的に「正しい」行動を起こせるのは、「自分なりの批評」を見つけられた未来に生きる芥川だけな気がします。
主人公の正義くんは、彼女に「責任の所在」を投げかける存在であり、また僕が個人的に憧れる人物像に過ぎません。彼のどこに憧れるのかというと、やるべきこととやらなくてもよいことを、自分の中で取捨選択出来ているところです。

「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

作中で度々正義くんが話題に挙げた、映画監督・小津安二郎さんのこの言葉。
これは「キネマ旬報1958年八月下旬号」に掲載された鼎談の中で、小津監督が述べたものです。

キネマ旬報1958年8月下旬号

小津監督の映画はカメラを動かさないことが特徴で、パン(カメラを固定したまま上下・左右に振ること)をしません。その理由を語った際に出た言葉です。

この部分です

実際に小津監督の映画を観てみると、自分の中の「好き」を余すところ無く昇華させた表現の結晶体を味わうことが出来ると思います。

この鼎談は、

「取捨選択」には割り切って妥協する意味だけでなく、自分の大切なものを守る意味も含まれているのかもしれない。

このような考えを持つきっかけを僕に与えてくれました。

 

現代ではインターネットが普及したことにより、それが無かった頃とは比べ物にならない量の「情報」が手に入るようになりました。たとえば「作品」も、かつては友人知人の感想しか耳に入らないものでしたが、今は全国各地で同じ作品を楽しんだ人達の感想が得られますよね。音楽もそうです。ストリーミングサービスが普及したことにより、レコード屋さんに行って一枚一枚CDを手に取らなくても、自宅で数千万曲もの楽曲を聴くことが出来るようになりました。

「知らなかったことを知ろうとすること」は、自分にとってプラスになることだと思います。とはいえ現代社会においては、得られる「情報」の全てを吸収することは難しいのではないかとも考えることがあります。突出した頭脳を持つ、いわゆる「天才」と呼ばれる人々は除いて。

インターネットは、素晴らしい文明の利器だと思います。
しかしこれが普及した現代は「取捨選択」が求められる時代とも言えるのではないか、と自分は感じています。

僕は、目に飛び込んでくる情報全てに執着する必要はないと思っています。
自分にとって大切な情報を見定めて、少なくともその情報だけには力を注ぐべきだと思っています。

芥川にとって、どうやらそれは『批評』のようでした。
正義くんにとっては、どうやら『仕事』がそれに当たるようです。

自分にとって大切な情報を見失わないように、気をつけたいですね。
それが物語全体を通して、自分が間接的に伝えたかったことなのかもしれません。

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